2020年03月

躁が終わりノーマルになったかと思ったが、もう鬱に近くなっている。アイデアは出ない。ブログネタも浮かばない。血圧が低めだ。昇圧剤は飲んでいる。結局桜は撮れなかった。出かけようとしたら少しふらつき、いい天気だったのに、出掛けられなかった。菜の花と桜というのは人気がある被写体だが、今年は見送りになるかもしれない。
  自分はカメラとパソコンぐらいしか財産がないが、何より自由がある。六十を過ぎて収入もほとんどない。姉は64歳で急死した。兄が急死したら、この部屋を引き払わなければならない。毎月5千円の年金生活者支援給付金が有難い。 
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A型作業所の経験がないので、B型作業所を経験したものとしてどういう所かを自分なりに解説しようと思う。まず前提として、普通の労働が困難である人、または困難だと思われる人のための一時的な職業訓練の基礎を養うための訓練所という位置づけであり、そこで作業をする人は、労働者ではなく、訓練施設の利用者とみなされる。そのため保護者がいて高額所得者の場合は、施設利用料が発生する。いろいろな形態の施設があるが自分の場合はクッキーの製造販売の作業所であった。クッキー製造は衛生面で気を使うためその作業には参加せず
、もっぱらフリーワークと呼ばれる、ラベルのプリントとそれに付随する、切ったり貼ったりの細かい作業をしていた。朝9時半頃出勤し十時に朝礼があり、各自が朝の体調と気分の報告をする。その後十時半に作業を開始し十二時まで作業を続けるが、二回ほど、休憩を許される。昼食後一時から二時半まで作業をし、掃除をして、三時には解散する。苦にはしていないつもりだったが、耳鳴りがひどくなったり精神神経に良くなかったのかもしれない。医者や、精神保健福祉士ともよく相談して今後どうするかを決めないといけない。A型は週5でもっとハードだというが、正式な雇用契約を結ばないといけない。精神保健福祉士、つまりケースワーカーに散々脅されたため、A型作業所には通えなかった。B型での実績がない人をA型のサービス管理者が認めるかどうかは、未知数だが、多分無理だろう。長く自堕落な生活に浸っていたためそこから、抜け出すのはかなり困難だ。収入が年金頼りになるのは避けたいのだが、自分が変わるしかない。





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ONと言ってぱっと二人が目に浮かぶのは、昭和生まれの証拠だ。ノムさんと、カネやんが逝ってしまい昭和を代表するようなスターで生きているのは、この二人ぐらいだろう。美空ひばりも高倉健も、渥美清も亡くなってしまい、漫画界では手塚治虫と、赤塚不二夫が亡くなって久しい。テレビの草創期を支えた、永六輔や、大橋巨泉、野坂昭如も物故している。昭和がふた昔前のことになり自分はおじいちゃんになってしまった。昭和元禄と言われたが、戦後の混乱期は知らない。高度成長期に沿って育った 自分たちはやがてバブルに乗って、転職を繰り返した。そしてバブルがはじけ自分の身の丈を知り、臆病者たちが勝利した。平成は、二つの大震災と、地下鉄サリン事件という暗い世相が支配した、不幸な時代だったのだろうか。今の20代は、酒もタバコも車も、およそ大人が自由になる特権を使わず、ひたすらゲームに夢中になっているらしい。
 
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この辺の世界史は学校の授業では触れられることが少なく、ニコンFが1959年に生まれたことを考えると、前に書いた、朝鮮戦戦争で耐久性を認められたのではなく、ベトナム戦争で有名になった可能性の方が高い。よく調べてから書かないと、いけないと反省。個人ブログだから許されるかもしれないが、プロのライターだったら、失格である。朝鮮戦争の頃は、まだ二眼レフが主流で報道カメラマンが追っかけをするときは、スピードグラフィックという、シノゴを使っていたいたはずだ。ローマの休日を見るとその当時の報道関係者の姿の一端が窺える。オードリーヘップバーンの演ずる王女と、グレゴリーペック演ずる新聞記者や、カメラマンたちの活躍ぶりが窺える。当時は報道カメラマンの方が、格が上で、広告カメラマンは格下だったようだが、荒木経惟氏は朝日新聞と電通の両社に受かり、電通を選んだ。荒木氏は電通に9年もいた。自分は写真に目覚めたのが、23歳くらいだったから、遅い出発だった。いらぬ苦労をだいぶした。シノゴもちゃんとした修行をしていない。向いてないでは済まされないのだが。今の最先端のデジタル機材はお金が続かない。今も昔も伝統的に金持ちのボンやお嬢が多い世界だ。その点荒木氏は下駄屋のせがれで子供の時からセミプロの父親から、写真術を伝授されていた。篠山氏は叔母さんからリンホフをプレゼントされていた。シノゴやバイテンの解説書など、その当時はなかっただろうから、体で覚えたのだろう。もう一億画素の時代なので、ちゃんと覚えようと思ったら、企業の宣伝部に入るのが近道だ。フリーは35mmをいかに使いこなすかに、絞るしかない。自分は哲学科だったが回り道をした。

 
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企画会議なるものに出たことはない。企画には予算の後ろ盾がないといけないし、’人材も揃ってないといけないはずだ。出版社の契約カメラマンしかしたことのない人間には荷が重すぎた。営業もできず、体力にも疑問符がつく人間が、空想だけの世界に浸っていたといえよう。ちゃんとしたプロデューサーもいないPR誌が相手にされる可能性はまずない。今だから冷静になっているが、冷静さだけでも、クリエイティブな仕事はできない。思いつきを、企画に結びつける力量や、早い話が予算がまるでなかったのだから話にならない。3週間ぐらいは夢を見させてもらった。躁と共に去りぬ。負担が減っただけでもよしとしなければ。仕事はそんなに簡単に作れるものではないと思い知った。地道に写真を撮っていこう。ブログも続けよう。さらば北浦和トリビューン。
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