2019年12月


 

病気を持っているということで、自分はかなり甘やかされたと思う。

フリーといえば聞こえがいいが、無職だ。いわゆる営業ができないカメラマンの典型だ。営業というのは百軒回って初めてちゃんとした営業というんだと、教えられたことがあるが、自分は10社も行かないで営業をやめてしまい、作品撮りをしていた。親父が、働かなくていい、といったことを真に受けてしまい、親父を納得させるだけの仕事ができなかたことが悔やまれる。結局コマーシャルでもなく、アートでもない作品を細々と撮っていた。四谷写真塾で勉強し、ようやく個展を開いたのが55才という、遅いデビューだった。四谷にあった、ルーニー、というギャラリーは、審査が厳しく落ちる人も多く、ルーニーで個展をしたというと、業界的にはちょっと凄いことらしかった。個展の期間中は、雪が降る、悪天候もあったが、何が何やらわからないまま終わってしまい、成功だったのか失敗だったのかわからない。メディアの取材が一本も入らなかったのは失敗なのかもだが、ギャラリーにプレスリリースを一任していて、個人的にメディアに売り込むことはしなかった。もしまた個展をやるとしたらもっと自分が動いて、プロモーションをしなければいけないと思った。とにかくやった人にしかわからないが、個展をするというのはとてつもないエネルギーを消費する。
XYZ_5186
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TOEICのテストの時、スマホを見ることを禁じられたので、わざわざ時計を買った。物持ちが悪いので、時計を新たに買った。アマゾンでカッコよく見えた、1万円弱のSEIKOの逆輸入版だった。自動巻きで一日使わないとすぐ止まってしまう代物だ。これまで、成金じみたスイス時計などは一度も買ったことはなかったが、女性は男の時計と靴を見た方が良いと、年配の女性に教えられるという。靴はイタリア製のいい靴を何足も持っていたが、時計は気にしていなかった。ようするに金持ちの男か、貧乏父さんか見分けるためなのだが、収入で結婚するかどうか決めるような女とは付き合いたくない。
 話は変わるが、年末だ。クリスマスも関係なく、多分年始も何事もなく迎える。鬱の時はブログを書くと、鬱が少し楽になるので書いている。ある人がこのブログを楽しみにしてくれるためしょっちゅう更新している。コメントが欲しいのだが、あまり好意的なコメントはない。SNSでコメントを書く人は、かなりマメな人だろう。このブログももう一年以上続いている。暇ということもある が自分がこんなにマメだとも思わなかった。たいていの人は、仕事をしているから、スマホでこのブログを見ているのだろう。








 
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ザ・フォーク・クルセダーズ ゴールデン☆ベスト
ザ・フォーク・クルセダーズ
ユニバーサルミュージック
2004-11-17

フォーククルセイダーズにピンとくる人は昭和生まれだろう。コミックソングが大ヒットしたのちに出した名曲は心に染みる。北山修は精神科医になった秀才で、作詞を担当していた。加藤和彦は作曲で、はしだのりひこは脱退しシューベルツとして、風、をヒットさせた。音楽評論家じゃないのであまり詳しくは言えないが、イムジン河という名曲もある。
南北朝鮮の分断の悲劇を綴った名曲で、メロディーも美しい。耳が悪くなったのでもうカラオケで歌うこともないが、持ち歌になっている。60年代は政治の季節で、安保反対や、反戦運動が華やかで、そうした意識が歌に反映されている。吉田拓郎はそうした政治運動に巻き込まれ、嫌な思いをしたようで、反戦歌というものはないが、師匠のボブディランは、風に吹かれて、という明確な反戦歌を歌っている。フォークソングのカテゴリーだと、フォーククルセイダーズが一番好きだ。拓郎はフォークロックといったジャンルに当てはまるかもしれないが、ラブソングにも名曲がある。拓郎オンステージ2に入っている、静、という名曲は、千回は聴いてる。



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幼稚園の頃、木馬座という人形劇を観に行った。母親に手をつながれているだけで幸せだった。孫悟空の芝居だったが、司会のお姉さんが、子供心に可愛いと思った。有楽町のそごうの上の方の階だった。その頃の有楽町はまだ、チンチン電車が走っていた。三丁目の夕日の世界である。東京タワーができたばかりで、親父を抜く家族みんなで東京タワーに登ったことを思い出した。母親に連れられて東京に出るときは、よそ行きと呼ばれる洋服を着せられた、母が選ぶ洋服は自分の好みでは無かったが、子供に服を選ぶ権利などない。たまに連れられて行ったのは、池袋のデパートだった。高めのおもちゃを買ってもらえたので、デパートに行くのは好きだった。昼にはお子様ランチを食べていた、子供用の椅子に座っていたのを思い出す。
 次兄は何かというと喧嘩を仕掛けてくるので、しばしば取っ組み合いの喧嘩になった。だが小学校高学年の頃は、一緒にクワガタを取りに、朝4時起きで三室のくぬぎ林まで行った。今は住宅街になっている。



 
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平和通り         
        XYZ_5203     東洋経済時代のことを詳しく書いたのだが画像を挿入するのを失敗し、最初
              からやり直しになった。かなり疲れてきたのでまた書くのが面倒だが、長距離選手になったつもりで書いてみる。確か、週刊東洋経済をはじめ7誌ぐらいを担当していた。記者のインタビューに同行し取材撮影をするのが70%だった。企業のトップの撮影も多かったが、作家や俳優の撮影、大学教授、シンクタンクのアナリストなど、結構撮ってて飽きなかったし、この仕事向いてるかもとも思った。移動手段の大半が地下鉄で、一番遠い取材先は鳥取だった。さすがに飛行機での移動だったが、まるでエリートビジネスマンになった気分がした。たいていの人は礼儀正しかったが、島田雅彦という作家は無礼だった。自分が渡した名刺を人差し指と中指で受け取るという非常識さだった。自分は有名なんだよ、偉いんだよとでも思っていたのか。俳優の中尾彬さんは、テレビと全く同じで、超辛口トークだったが、タバコを吸ってる快心の姿を撮影できた。変わった撮影依頼は三菱グループの金曜会の看板を撮ってきてくれというのがあった。大蔵省の看板も撮っていたが。慶應大学のSFC湘南藤沢キャンパスの開学式の撮影も、上手くいった。くす玉が割れる瞬間を青空をバックに撮影できた。オリエンタルランドの社長さんの撮影の最中傘バンのストロボが発光せず、すかさずサブで持っていたストロボを直光であて、難を逃れたこともある。難しかったのは、ブラウン管画像の撮影だったが、写真部長に教わった。写真部長の仕事は週一回表紙の撮影をすることぐらいでいいご身分だった、もう一人の正社員カメラマンは全く仕事をしていないという異常な会社だった。それで二人は年収一千万超えだった。働きは多分自分が多かったはずだ。



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